福祉の会(CWA)TOP   JT/ASH TOP   チェンマイ迷宮案内TOP   お問合せ・ご要望
<コラム・チェンマイに住んで>  (斉藤嘉美)
 
 

「チェンマイに住んで」  その15

 

2015815日は日本の敗戦後70年の節目の年に当たります。

この日、インパール作戦戦没者慰霊祭がワットムーサンとバンガードウィタヤーコム中高校の

敷地内にある慰霊碑(バンガード会場)の2か所で執り行われました。私はバンガード会場の

カメラマンを務めましたので以下、バンガード慰霊祭会場の模様について記述いたします。

バンガード・ウィッタヤーコム中高校はメーワン郡の郡校で、我家から運河沿いの新道を

30Km行った所にあります。この学校の敷地内に、当時あった井戸の中から多くの遺骨が

発見されたことからこの井戸の上に戦病没者追悼の碑を平成5年に建立しました。

井戸の中には18千柱の遺骨が納められていると言われております。慰霊碑のある敷地内には

鐘楼が建立されており、大梵鐘には昭和天皇の御製が刻まれております。

インパール作戦に参加した将兵は7万人とも9万人とも言われておりますが、インパール作戦開

始後3ヵ月で食糧、弾薬の補給困難により、作戦は中止となり、日本軍はチェンマイまで

撤退することを余儀なくされました。ミャンマーと国境を接するメーホーソン県からチェンマイまで、

今でもバスで5時間かかる距離を敵の追撃をかわしながら、食糧、弾薬もなく徒歩でチェンマイまで

たどり着くまでに餓死、マラリヤなどによる病死などで亡くなった将兵の数は実に9割にも

達したそうです。メーワン郡バンガードまで到達して力尽きた兵士、さらにバンガードから

チェンマイのワットムーサンまで到達した兵士は手厚い看護を受けたと言われております。

さて、慰霊祭当日は、朝のうち小雨模様でしたが、式が始まる少し前から雨は止み、曇り空の中、

午前9時半から式典が始まりました。日本国総領事館の総領事をはじめ、バンコク・ブアトーン会の

皆様、バンガード校の先生と日本語を学ぶ生徒達、メーホーソン県のクンユアム中高校の日本語教師、

蔭山先生引率の10名の女生徒、チェンマイ在住の日本人の方々、総勢94名の方々が参列いたしました。

また、NHKの取材班も来ておりました。

後で分かったことですが、バンガードでの慰霊祭の様子が同日の午後7時のNHKニュースで放映された

そうです。
国歌斉唱、黙祷、来賓挨拶と続き、焼香、献花の後クンユアムから来た日本語を学ぶ

10
人の女生徒はカレン族、モン族、イサン族、タイ族の混成チームでそれぞれの民族衣装をまとい

「手紙・・・拝啓15の君へ」と「はなみずき」の歌を奉納したことで式典に花を添えました。

難しい歌をこの日のために猛練習をしたそうです。
クンユアンからチェンマイまでバスで5時間かけて

バス酔いしながらよく来てくれたものですが、タイ第2の都市、チェンマイに憧れがあったのでしょう。

10人のうち7人はチェンマイに来たのはこれが初めてとのことで、エスカレーターにも乗ったことが

ない女生徒達でした。
参列者全員で「ふるさと」を合唱した時は、故郷への帰還の想いも叶わず

亡くなった若き将兵の思いが乗り移ったかのように胸が一杯になり、最後まで歌うことが

できませんでした。
話しは変わりますが、ワットムーサンに旧日本兵の使った遺品が納められている

資料館があります。ある時、軍隊手帳なるものに目が留まりました。小川眞と言う名の兵士が

実際携帯していたこの古い軍隊手帳をコピーし、パソコンで全文書き写しの作業をし、B5版の

軍隊手帳を再生いたしました。この軍隊手帳の内容は現代の日本人には想像もつかない厳しい

文脈が22頁も続きます。全頁を通して精神論で貫かれており、当時の日本人は国を守るため

必死だったことがうかがえます。当時の時代環境はこれが当たり前だったのでしょうが、

皆、戦死を覚悟の上で、日本と言う国を守るために出兵していった多くの兵士に感謝し、

手を合わせないではいられません。
写真は言葉よりも多くの事を語ります。

以下にバンガード会場での慰霊祭の写真を添付いたしまし。

 

 

 

 

                                 

                      

 

    

 

 

 

 

 

 

 
 
 

チェンマイに住んで  その14

今年の雨季は例年のような土砂降りの雨は少なく日本の梅雨のようなシトシト雨に感傷的な気分に浸る日々が

続いております。朝、窓のカーテンを開けると昨夜の雨は上がったものの、晴れ間がなくどんよりとした曇り空。

降るなら何もかも洗い流してくれるような爽快な雨とカラッと晴れ上がったあのすがすがしい天気であって

ほしいものですが、昼間も霧雨のような雨が降ったり止んだりの空模様に気も滅入って来ます。

こんな天気が10日以上も続くと、庭の植物達も「いい加減に陽の光をくれ」と言っているようです。

これら植物達は、種からそだてたもの、挿し木から育てたもの、植木屋で買ってきたもの、先住者が残して

いったもの等色々ですが、どれも手塩にかけるほど愛着がわいてくるものです。

出かける時はカバンの中にはハサミと袋を入れ行きます。これは道すがら目に留まった花木の小枝を

失敬するためのもので、庭の植木はほとんどが道端や、よそ様の庭木の小枝を頂戴し、挿し木にして

育てたものです。発根率は種類によって異なり、生育させるのはなかなか難しいのですが、諦めていた挿し木に、

小さな葉が凛として伸びて、スクスクと成長して行く様子に生命の神秘を思い、腹の底から活力が湧いてきます。

最近、大きくなった植物を鉢植えにし、室内に入れるとまた部屋の雰囲気がグッと違って見えることに

感動しました。もの言わぬ植物達ですが、何やらささやきながら微笑んでいるようです。

この植物達の名前は一つも知りません。名前が解ればもっと愛着が湧いてくるのでしょう

以前、標高560mのところにある畑を3人で借りたことがありました。事情によりここは閉鎖となり


ましたが、無農薬で、とりたての野菜を食べたいという思いは消えず、庭の一角に小さな畑を作っております。

わずか3平方メートル程の畑ですが、庭の土が粘土質で乾季には、石のように固く、雨季には粘り
つく土となり、

野菜の栽培には向きません。そこで、土壌改良が必要になります。生ごみ、土、枯草を交
互に重ねることを

繰り返し1週間に1回は混ぜっ返すことを続けやっと柔らかい土壌が出来上がります。


オクラ、モロヘイヤ、ニラ、トウガラシ、パクチ、ナス、キウリ、トマトなどタイ産の種子を使って

始め
ようと考えております。収穫までにはまだまだやることは沢山ありますが、取り立ての野菜を食卓にのせ、

お気に入りの植物達に囲まれてのビールはまた格別でしょうが、植物に囲まれた一人パーティーより、人

囲まれたパーティーの方が良いに決まっています。いずれ、日本人でもタイ人でも我が家の庭で

BQパーテ
ィーを開ければと思っております。

        

        

        

    

   

   

      堆肥作り                      堆肥作り   

                     

    

  

  

   

   

  

  

 
 

チェンマイに住んで  その13

チェンマイに住んで3回目の雨期を迎えました。振り返ればバンコクから長距離バスで、初めてチェンマイの

バスターミナルにおり立った時も雨だった。早いものであれから2年4ヶ月が過ぎ、身体もチェンマイの

気候や食べ物にも順応し現在、健康状態は極めて良好。
鳥の声で目を覚まし、6時には起床。

パジャマ姿のまま朝露に濡れた芝を踏みながら庭に植えた植物達を見て回るのが至福の時。

朝食は決まってパン2切れ、目玉焼き、レタス、バナナとパパイヤのヨーグルト和えと熱いミルクコーヒー。

音楽を聞きながらゆっくりと一人朝食をとりながら、今日の予定を考える。

メーワン郡にあるバンガードウィッタヤコム高校で日本語のサポート教師を始めてから早1年。

新学期が始まった5月、大きな変化がありました。1年間授業を共にしていた、2人の実習生と教師が退校し、

新しい日本語教師が着任しました。ラチャパット大学、日本語学科卒の好青年。25歳。彼の日本語能力は

日本語で会話するには程遠いレベルで、授業は私が教科書を手に教壇に立ち日本語で教え、彼が通訳をしながら

進めて行く形が定着してしまいました。このため、事前の準備が欠かせません。新学期になって、

期待していたことがありました。日本語を選択する新1年生の人数はどのくらいか。

1から日本語を教えることに期待を持っておりましたが、人数は期待に反してゼロ。

中国語に流れたようです。3年生は卒業しそれぞれの道を歩み始めました。1年生、2年生はそれぞれ、

そのまま進級して2年生(8名)3年生(18名)になり、引き続き私の教え子となります。

無い知恵を絞りながら、楽しい日本語教室にしようと創意工夫の日が続いていますが、生徒達の笑顔が

自分の歳も忘れさせてくれる程に生徒達から元気をもらっています。

   

高校2年生                     高校3年生

  

先生の日(生徒達がそれぞれ花束を作ってくれました)先生の日(お辞儀の仕方が半端じゃない)

  

    2年生全員                    3年生 ソーランの練習

  

2年生仲良し3人組         エトウ財団が来た時に踊りと歌を披露してくれました

メーホーソン県のクンユアム高校出身でラチャパット大学の日本語学科で学んでいる学生に毎週土曜日、

1時間100バーツでタイ語のレッスンを受けております。発音を重点にしたレッッスンですが、

このレッスンでは逆に学生たちに日本語を教えることもするようになりました。

70歳を超えた高齢者がたとえタイ語をマスターしたとしても、その有効期限はあと数年。19歳、20歳の

学生たちは日本語をマスターすればその有効期限は幾十年。彼女達の人生の武器として日本語はマスターして

欲しいと望むばかりです。

このレッッスンを始めたのは彼女たちが大学1年生の時でした。この学生たちに、日本式清掃を教え始めたのも

同じ頃です。私達、支援者が最も望んでいることは彼女達が大学を卒業する事ですが、このご時世、

どの国も卒業後の就職難は厳しいのが現実です。卒業後、彼女たちが夢適わず思い通りの就職が

できなかった場合、腕に職を持つことは人生の一つの武器になりえます。そんな考えのもと日本式清掃を

学生に教える事を始めたのが2年前でした。日本語と日本式清掃技術の2つの武器が彼女たちのこれからの

人生に役立つことを願って、毎週日曜日、福祉の会会長宅で日本式清掃を伝授しております。

このタイ語のレッスンと清掃のアルバイトに1日も休まずについてきた2名の学生がおります。

2
年間学んできた2人の日本式清掃技術は日本人家庭の清掃を請け負うほどにはまだ到達はしておりませんが、

後から加わった3名の後輩達とは明らかに差が出てきております。

日本人と接することにより、日本人の礼儀作法、時間厳守、清潔感、誠実さ、勤勉性などを感覚的に

会得して欲しいと思いますが、2人についていえば2年前と比べて格段に成長していることを見て

取れることができるのは確かです。これは支援に携わっている者にとって、1つの成果と思って良いと思います。

日本人の見本と見られる程の私ではありませんが、彼女たちの前では気持ちを引き締めて日本人ぶって

立ち振る舞わなければならないと思う今日この頃です。

 

 

          清掃中                    清掃中

 逆に、高校生も含めて、学生達と接している中でタイ人の心の豊かさ、大らかさ、仏教からくる慈悲の心、

タイ流のもてなし等にタイの美徳を感じます。そして何よりも屈託のない笑顔はこのタイ独特の美徳から

来ているのではないかと思います。笑顔の裏に何があるか詮索する向きもありますが、彼ら、彼女らの笑顔を

すなおに受け取れば、こちらも自然に顔がほころんできます。

 

 

  

 

 

 



 

 

 
チェンマイに住んで  その12

バンガード・ウィタヤーコム校に通い始めて、早、1年になろうとしています。

タイ語も出来ないのに、サポートとは言いながら、日本語を高校生に教えることに一抹の

不安がありましたが、約1年を過ぎてみると、「案ずるより産むが易し」で、何とかなるものです。

若い生徒達を相手に会話練習や漢字の書き方を教えながら、生徒一人一人の個性などを観察する

余裕も出てきます。孫ほどの年齢差がある若者に囲まれているだけで、私自身が若返って来ます。

若いっていいなあと思います。かわいい生徒達に会えるならば、雨の中、埃まみれの道、

暑い日差しも厭わず通い続けることができます。。思い出に残る事が一つ。

通い始めて1か月位のある日、日本語スピーチコンテストに参加する2年生の女生徒に

スピーチの特訓をしてくれと頼まれました。コンテストの日まであと10日。この10日間、

土曜、日曜もなく毎日学校に通って、放課後、誰もいない校庭のベンチで特訓をしました。

「私が世界のためにできる事」がスピーチの題名でした。A4の紙に書かれた日本語の発音を

タイ文字に直して覚えるのですから、内容の理解は後回し。スピーチコンテストの当日は朝から

土砂降りの雨。会場はサンパトーンの高校で、バンガード校よりも数倍大きな高校にびっくり。

スピーチコンテストの参加者は、各校から選ばれた優秀な生徒6名。審査員はタイ人の日本語教師、

日本人教師1人と私の3名でコンテスト開始。残念ながら、我が教え子は6名中5位に終わって

しまいましたが、やり終えた時の彼女の笑顔が印象的でした。


   
スピーチコンテストの特訓           日本語スピーチコンテスト

2015年3月末に卒業式や、実習生の送別会があり、3年生は卒業し、日本語教師1人と実習生2人は

バンガード校を退校し、新しい道を歩みだしました。新学期は5月から始まりますが学校には

日本語を解する人はいなくなり、新任の日本語教師は決まったのか、新学期はいつから始まるのか、

新1年生は何人くらい日本語を選択するのか等が全く分かりません。

5月に入って、とりあえず学校に行ってみたところ、授業は5月1日より既に始まっており、

新任の先生も着任しておりました。彼はラチャパット大学、日本語学科卒で25歳の好青年。

名はナッタポン。1年生の8名、2年生の18名はそのまま進級して2年生、3年生になって

おりましたが、新1年生は希望者無し。これにはショック。どうも中国語の方に流れたようだ。

新任の教師の日本語能力は、日本語で私とかろうじて会話ができる程度ですが、彼の生徒を

引き付ける能力は抜群で、彼が話し始めると生徒達は皆、姿勢をただし、真剣なまなざしで

聞き入ろうとします。私には何を話しているかわかりませんが、彼の日本語への思いは

強いと感じました。日本語を選択する新1年生の生徒は残念ながら0でしたが、新任教師とあまり

気張らずに、生徒達とも楽しい教室にして行こうと気持ちを新たにしている今日この頃です。


               
   砂利道が舗装された道         運河沿いの道の火炎樹
    


      
3年生18名                       2年生8名
 
 


 
 

チェンマイに住んで (その11

喧噪のソンクランも終わり、人々は雨期の到来を待ち焦がれる日々。時々、雨期の始まりを思わせる風が吹き、

一時的に激しい雨が大地をたたき、植物達にとってはカチカチに固まった土に耐えながら、待ち焦がれていた恵みの雨。

もうすぐ本格的な雨期の到来となります。

日本語教師のサポート(サポ教)をしているバンガードウィッタヤーコム中高校は3月には文化祭、卒業式、実習生の

送別会も終え、4月いっぱいは夏休みに入り、5月から新学期が始まります。


3
月に行われた文化祭には、体育館わきで餅つきを披露し、あべかわ餅、いそべ巻き、あんこ餅をふるまいました。

初めて見る餅つきに、生徒や先生、来賓の人達は杵を取って汗を流してくれました。タイにも糯米はありますが、

臼と杵で餅にするまでは発展しなかったのでしょう。日本では餅つきは稲作信仰の一つとして古くから引き継がれ、

神事の中に組み込まれ、今日に至っています。このバンガード中高校の敷地のはずれに旧日本兵が眠る戦没者慰霊碑が

ありますが、搗きたての餅を慰霊碑にお供えして、参加者全員で祈りをささげました。

 
文化祭で芸者踊りを踊った先生と生徒            来賓の他校生
 
3月で実習生を終えるプイさん。            高校2年生
 
3月で退校するアーミー先生。               お供え餅 
 
 旧日本兵戦没者慰霊碑

去る、117日と18日にも、旧花博覧会会場(ラーチャップルックのイベントホール)で観光客を相手に餅つきを

披露しました。当日は多くの観光客で賑い、餅つき会場にも様々な外国人が臼を囲んで興味深かそうな眼差し。

中国人と思しき観光客が杵を握り中国語で「よいしょ、よいしょ」と掛け声をかけて、笑いを誘って
おりました。

中国には餅つきの文化はあるのでしょうかね? この餅つきにはラチャパット大学の日本語学科の学生2名が手助けとして

加わり、花を添えました。次の餅つきは雨期の明ける、10月以降になるでしょう。

ラチャパット大学、日本語学科の学生            花博会場 
 
 

 
 
 チェンマイに住んで  (その10

チェンマイに住んで3年目に入り、ハンドンの片田舎に安住の地を得て、家事、買い物、庭仕事、畑仕事、人との出会い、時にはバイクでの遠出などして、自由気ままな一人暮らしに、今のところ満足しています。ボランティア活動も勢いに乗ってきたようですが、何事も調子に乗りすぎる時が危ないと自重しつつ、ストレスも適当に受け流す余裕も出てきて、人との繋がりに感謝する今日この頃です。ただ、問題はタイ語。このコラムの第一回目、チェンマイに住んで(その1)に、「タイ語の勉強は絶対に諦めないこと」と豪語した以上、諦める訳にはいかないと思いつつも加齢には勝てないと実感。さっき覚えた単語が数分後には頭の中から消えてゆく虚しさを感じる日々。未だに、タイ人とちょっとした会話すらできない。こんな状態で高校生に日本語を教えているのだから、我ながらいい度胸していると思う。

プロスキーヤーおよび登山家として知られる三浦雄一郎氏は75歳及び、80歳の時にエベレスト登頂に成功し、加齢への挑戦を実践した男として知られています。彼は現在83歳で健在です。三浦雄一郎と比べるのもおこがましいことですが、私は411日で満72歳になります。体調は日によって好、不調はあるものの、体力的にはまだ60代前半、脳力的には歳相応と思っておりますが、加齢を理由に諦めた時点で、何事もストップしてしまいます。そこで、タイ語のマスターを加齢への挑戦と考え、時間はかかるけれども、諦めること無く続けていくつもりですが、「日暮れて、道遠し」の感があります。

私が、かつて少しかじったことのある他言語は英語、スワヒリ語、スペイン語がありますが、70を超えてタイ語に挑戦することになるとは夢にも思いませんでした。が、今思うに私の人生は挑戦の連続だったように思えてなりません。私が28歳の時、青年海外協力隊で東アフリカのタンザニアで過ごした4年間はスワヒリ語でした。赴任前の3か月間、訓練所で各国の語学特訓が行われましたが、当時は日本人のスワヒリ語の先生はおりませんでしたので、スワヒリ語だけは現地研修という決まりがありました。現地での1ヶ月間のスワヒリ語研修は研修と言うにはかなり荒っぽいやり方で、先輩隊員から1枚の汽車の片道切符を渡され、「夜中の12時ごろ、何とかという駅に止まるから、そこで降りて、駅前のホテルに泊まり、後は自分で考えろ」と言うことでした。カメラ、時計などの貴重品の所持は許されず、お金も最小必要な金額だけに制限され、同期の隊員7名は飛行機で、バスで、汽車で地方の田舎にとばされました。今思えば、この1ヶ月間はいろいろな事があり、語学研修とは別に異言語を話す人たちの中に放り出された時の度胸を体感し、語学は度胸と悟ったものでした。昭和48年のことでした。

激動の昭和は遠くなり、学生時代、海外在住時代そして、企業戦士として働いたあの頃は夢の中。今、チェンマイで一人暮らしをしている自分が不思議に思えてきます。♪人生って不思議なものですね♪ 

コラムの内容からして載せる写真がありませんので、タンザニアでの写真を載せることでご容赦願います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 写真の説明 キリマンジャロ頂上より下山まで三泊四日かかります。
ガイドと共に高山病に苦しむ。ここからセレンゲティ国立公園に入る。
セレンゲ国立公園内。仕事仲間と学生達。食品加工工場とJOCV事務所。
 
 
 
チェンマイに住んで  その8 

チェンマイに住んで その8  おもてなし

チェンマイの名の知れたホテルやレストラン、スーパーマーケット、コンビニ、郵便局などの客に対するサービスはまあまあの応対で、私は今のところ不満を感じたことはありませんが、中にはぞんざいな応対をする店もあるのでしょう。何事も人間のすることですから、品質やサービスが100%完全であることはあり得ないと思います。(ただしMade in Thaiの製品の品質は?ですが)かつて私が滞在した国々と比べると、タイのもてなしやサービスはまあまあの水準であると私は思います。チェンマイに来て以来、タイ人の店員に不快な感じを受けた経験はいまのところありません。

タイのこのような応対に良い感じで慣れていた私も一時帰国して、我が街、相模原市のスーパーマーケット、レストラン、区役所、飲み屋、空港(成田)等で買い物やサービスを受けた時の日本人の応対ぶりには、タイから来たタイ人のようにびっくりです。日本は昔から、おもてなし大国であることを改めて知った次第です。私が経験したどの国よりも、日本の接客術は素晴らしい。いや、「術」を「道」にまで極める日本人ですから接客術と言うのはふさわしくないかもしれません。人として行うべき作法道と言うのはちょっと硬すぎでしょうか。私の経験してない国でも素晴らしい接客をする国もあるのでしょうが、目的がお金儲けのための手段としての接客では真心は伝わりません。

人の価値観はさまざまですが、思うに、日本人は目的と手段が逆になっているような気がします。何かを達成するために四苦八苦しながら「足らぬ、足らぬは工夫が足らぬ」の諺通り創意工夫を凝らすうち、いつの間にか、目的は達成されるのですが、それはどうでも良いことで、目的達成のための過程で創意工夫し難題を切り抜ける事に価値を置くのが日本人の特性なのかなと思うことがあります。お金はその結果、後からついて来る副産物みたいなものだと私は思います。

一時帰国中、娘の結婚式でスペインのバルセロナに行った帰り、イスタンブールで、夜中、3時間の乗り継ぎの間、おもてなしとは程遠い事がありました。成田国際空港行きのゲート周辺は多くの人でごった返しておりました。ある店でお土産を買おうと紅茶の缶を手に取りましたが、Cash DeskにはClosedの表示がある。Deskの奥を覗いて見ると若い男がスマホをいじっている。「Cash Deskはどこだ」と聞くと「ここだ」と言って表のClosedの表示を無しにして、“表無し”を始めました。気付くと私の後ろにお客さんが並んでいて、私には無言で応対していた店員も、次のお客には「Passport please」とPleaseを付けていました。彼にもおもてなしの気持ちはあるのでしょう。

成田国際空港に着いたのが日本時間で午後7時ごろ。時差ボケで頭は朦朧としているなか、到着ロビーに向かう通路上部にでかでかと「おかえりなさい」の文字。おお!やっと日本に着いたのだと安堵したものでした。長距離バス乗り場で並んでいると、係員が乗車券のチェックをしており、私の持っていた乗車券は乗車券引換券なので、「カウンターで乗車券に換えてください」と言われ、カウンターはどこかと聞く前に、他の係員が私の荷物を持って、バス会社カウンターまで案内してくれました。列に並ぶこと約10分。その間も係員が待っていて、私の乗車券をチェック。「バス到着まで30分ありますからこちらでお待ちください」と言って、ベンチわきに荷物を置いていきました。しばらくベンチでウトウトしていると、さっきの係員が来て「バスが到着しました」と告げに来てバス乗り場まで案内してくれる。日本ではこのような応対は特に取り立てて言うほどの事でもないのかもしれませんが、かの係員の真心が伝わってきて長旅の疲れも癒されました。彼は、長旅で疲れているお客のためにどうすべきかを考えて自分なりの応対を取っているのだろうと思うのは私の思い過ごしでしょうか。

人、それぞれ。国もそれぞれ。その国なりのもてなし方があるものですが、チェンマイに住む日本人として、おもてなし作法道をタイ人に押し付けるのではなく、自ら実践していこうと思っております.                      
成田国際航空 到着ロビーにて   イスタンブール空港 乗り継ぎ   イスタンブールの満月

                   

 
チェンマイに住んで  その7 
 
昨年中は
♪つながってくれてどうもありがとうございます。楽しんでくれてホントにありがとうございます。いつも気遣ってくれてまことにありがとうございます。いつも微笑んでくれてありがとうございます。メルマガを読んでくれて、本当にありがとうございます♪ 
昨年に引き続き、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

チェンマイに住んで その7
「2つの結婚式」

チェンマイに住んで早2年が経ちましたが、10月3日、約1年ぶりの一時帰国をしました。チェンマイから香港経由で成田着。長距離バスで2時間半かけて、深夜、相模の国、橋本にある拙宅にたどり着きました。翌日から、手帳に書いたやるべき予定項目の一つ一つを消すために行動を開始しましたが、予定外のことが次々と起こり、休養どころか忙しい日々の一時帰国でした。

私の娘と甥の結婚式に出席するためにバルセロナとグァムに飛びましたが、結婚式にかこつけて、観光も大いに楽しみ、コラムに投稿する材料もたくさんできたと思いますが、今回はバルセロナとグァムついて印象に残ったことのみをコラムにしたため、「副題を2つの結婚式」としました。

娘の結婚式の式場はバルセロナ。イスタンブール経由での3時間の乗り継ぎ時間を含め成田→バルセロナの飛行時間は17時間。相当な疲労を感じましたが、これで一つ肩の荷を下ろすことができました。結婚式の翌日、娘、その夫と私の3人でサクラダファミリア教会へ向けてバスで移動中、バスの中で、3人が立っている前のガラス窓の外に1匹の黄色い蝶が窓にへばりつくようにひらひら舞っているのを発見しました。9年前に今は亡き妻と娘と私の3人でバルセロナの町の建築物やサクラダファミリア教会を観光した思い出があり、娘も私もその時のことを思い出しながらバスに乗っていたので、娘が「あッ、お母さんだ」と叫びました。その蝶はバス停一駅、窓にへばりついていました。バスがサクラダファミリア教会前で止まるとその蝶はひらひらと寒空の中、教会の中に溶け込むように消えていきました。後日、ネットで調べたところ蝶は蛹となって越冬するので冬に舞う蝶々はいないとのこと。すると、あの蝶は・・・


  

 
 
 
結婚披露宴が行われたレストランの玄関わきに、「Happiness is not a destination. It is a way of life」と書かれた看板が何気なく置かれておりました。 この文句、私の琴線に触れて、思わずシャッターを切りました。直訳すると「幸せは到達点ではない。それは生き方である」ですが、これは味気なく聞こえてしまいます。日本語でしっくりする諺は無いでしょうか?


12月7日は甥の結婚式にグァムへ飛びました。グァムはアメリカ領ですが、日本人が占領しているかのように、日本人観光客が多く、特に、グァムで結婚式をあげる若いカップルで満ち溢れておりました。甥の結婚式を終え、目指すはサンゴ礁に囲まれた波静かなビーチ。沖の方まで泳いでも遠浅の海、青空、灼熱の太陽、透明度の高い海水、耳に触れる水の音、そんな中で遠くホテル街を見ながら一人海に浮かんでいると頭の中が空になり、自然と一体となっている自分を感じます。海底は、また別世界。大小のサンゴの塊が散在し、その塊にある無数の孔に1p前後の蟹や小魚が棲んでいます。塊の周りにはそれをエサにする10p位の魚がうろついている。このような光景が水中眼鏡を通してみることができ、時間のたつのも忘れるひと時でした。   
 

グァムから一旦、成田に戻り、空港近くのホテルで1泊し翌日、香港経由で12月10日チェンマイに戻って来きました。今回の2か月間の一時帰国はアッと言う間でしたが、チェンマイ空港に着陸するとき、眼下に野焼きの煙が漂っているのが見えてくると故郷に戻ってきたかのような思いがしてチェンマイを留守していたこの2ヵ月は長―く、感じました。
 
  
 
 
 
 

チェンマイに住んで その6
 

タイ人の日本語教師のサポート役としてバンガ−ド・ウィッタヤ−コム中高校に転勤してから1ヶ月が経ちました。家から運河沿いの道を南に走ること約50分の所にその学校はあります。バンガ−ドへの道は新しく出来た広い道路で、往来する車も少なく、バックミラ−に映るのは、道路工事の大型トラックぐらいなもの。ほかに見えるものといえば舗装道路の遥か前方にゆらめく蜃気楼や,空に浮かぶ羊雲、青々とした田んぼ、朝日を浴びてくっきりと見える山々の連らなり。そんな風景の中をバイクで疾走するのは爽快そのもの。工事中の十字路を右折するとバンガ−ドの町が見えてきます。快適なドライブもここまで。バンガ−ド・ウイッタヤ−コム中高校はこの町の外れにあります。週2回、この道路を走って通勤する行き、帰りの田園風景に見飽きることはありません。

 

     バンガ−ドへの道                  遠くにバンガ−ドの町が見えます

 

 

      バンガ−ドへの道                   バンガ−ドへの道

さて、その学校ですが、全校生徒数は中学生、高校生合わせて約400名、職員数約60名。タイ人の日本語教師は2名で、1人は日本に行った経験のある女性。流暢な日本語を話しますが現在は実習生待遇とのこと。名前はワンウィッサ−。生徒に大変人気がある。中学生のHOME ROOMの担任も兼務して月給が9000BTとか。校舎を歩いていると、すれ違う生徒達は私を物珍しそうに見て、両手を合わせて「こんにちわ」「お元気ですか」と挨拶してきます。初対面の時に「お元気ですか」はないだろうと思っていましたが、その訳は授業が始まると分かりました。最初の高校1年生の授業の時、驚いたのは教室に机が無い。先生に聞くと、日本式にお膳を使いますとのこと。生徒たちは教室の後ろに積んである一人用お膳を持ってきて座った。確かに日本式には違いない。江戸時代に畳の寺子屋で使っていた机は座り机ではあるが、コンクリ−トの床にお膳の机とは、と思いつつ、授業は始まります。生徒達は起立して先生に向かって「おはようございます。お元気ですか」ときた。なるほど。生徒たちは「こんにちは。お元気ですか」は日本人への挨拶言葉として教えられているのか。

 

 

   バンガ−ド・ウィッタヤ−コム校舎               座り机で勉強

 

 

                             「こんにちは、お元気ですか」

 

2人の先生はもとより、校長先生も無報酬で日本語の授業を担当してくれることに大変、恐縮していました。職員会議で紹介されたり、午後4時半の終礼の時にも全校生徒の前で紹介されたり、職員も生徒も私の赴任を歓迎してくれていることを感じました。日本語を教えたことなど全く経験はありませんが、これを機にタイの子供たちに日本語を教えることをライフ・ワ−クにしたいと思っております。

 

 

 

「チェンマイに住んで」 その5

ワット・プラシンの門を入った左手にお坊さんの高中学校があります。この校舎の3階に日本語を教える専用の教室があり、タイ人の女性教師が日本語を教えておりますが、高校1年生から3年生まで、朝8時半から午後4時半まで一人でこなしており、かなりのハードワークとおもわれます。生徒は黄色い袈裟を纏ったお坊さん高校生。この学校

に私が日本語教師のサポート役として活動し始めてからもう数ヶ月が過ぎました。

 

 

水曜と金曜の週2回、それぞれ1コマ、1時間を受け持ちましたが、黄色の袈裟を纏った生徒を見て、最初はどう扱って良いか分からず、自分のぎこちない動きを思いながら、先生の指示通り生徒と会話練習をするのがやっとでした。新学期に入って、週2回、1年生13名のひらがなの練習を担当しております。日本語又は中国語が選択科目で、中国語を選択する生徒が圧倒的に多い中、日本語を選択したお坊さん高校生は日本に特別な憧れを持っているように思います。13名中2名は目に障害を持っている生徒ですが、みんなに引けを取らない練習ぶりには感心します。みんな真面目で、素直。日本人が教室に1人いるだけでも、雰囲気が和むと日本語教師、ヌッチャリン先生が言ってくれました。

 

私が中学生の頃、日本人英語教師のサポート役として、日本語の全く分からない外国人が教室に入ってきたとき、皆、好奇心をもって迎えたことを覚えています。わずかな期間でしたが、外国人教師のカタコトの日本語と習ったばかりの英語でわずかな会話ができたことは遠い昔の記憶の中に残っておりますが、お坊さん高校生も私をそんな好奇の目で見ているのでしょう。

 

生徒ともだんだん打ち解けてきたある日、転勤の話があり、8月から、サンパトーン郡にあるバンガード・ウィタヤーコム高中学校で活動することになりました。その学校は私の家から運河沿いの道をバイクで南に約40分のところにあります。旧日本兵の戦没者慰霊碑があるところです。8月からまた新しい世界が始まると思うとドキドキ、ワクワクしてきます。 次号ではこの学校での様子を描きたいと思っております。

 
 
チェンマイに住んで その4 2014年6月
 
雨季に入って、木々の緑が輝きを増してきました。我が家の庭の雑草も勢いをまし、1週間も草刈りをサボると庭は雑草に覆われ、見る影もなくなります。芝刈り機を使うほど広くはない庭なので、普通のハサミでチョキチョキとやりますが、何も考えずに、無心になれるのが草刈の良いところでしょうか。この庭にトマトやキュウリ、ナスなどを植えようと、庭の土壌改良の作業を進めていた頃、「畑を借りて無農薬の野菜を作らないか」と言う話が舞い込んできました。これは渡りに船とばかりに、賛同者3人で畑を借り、野菜作りが始まりました。

曲がりくねった、上り下りの多い道をバイクで走ること30分、標高560mの山の中腹にその畑はあります。
山の空気は美味しく、そよ吹く風が気持ちがいい。この畑から見渡す牧歌的な風景に子供の頃の古里を思い出し、いっぺんに気にいりました。畑の南側はひらけて、遠く、雲をかぶった山並みを望み、東側は急斜面の丘となってその麓から、私たちの畑、約300uの平地につながる。畑の脇には小川が流れ、流れ行く先はバナナ畑へと下り、取る人もなく、バナナがたわわに実っている。小川の流れ来る先をたどれば、山の中腹に紫色の屋根のロッジが緑の中に映えて見えます。そんな中で、そよ風に吹かれるだけでも何となくハッピーな気分になれます。

ロケーションとしては最高の地ですが、灼熱の太陽の下での農作業はかなりこたえる。苗作り、畑地の草取り、畝作り、苗の移植、水遣りと手分けして作業をします。一番、体力を使うのは草刈と畝作り。雑草の成長の速度は自然の驚異さえ感じます。ほっとけばたちまち畑は草に飲み込まれます。身の丈ほどに伸びた草を刈る作業は30分が限度。畝作りもかなりの重労働ですがこの大自然の中で身体を動かしていると自然の中に溶け込んでいる気分になって、人間も自然の一部であることを実感します。

いまのところ、畑に育っているのは玉蜀黍、ミニトマト、ナス、キウリ、オクラ、パセリ、ミツバ、大根など。
多少の虫食いや、生育不揃いのものはあるものの順調に育って、あと1ヶ月もすれば正真正銘の無農薬の野菜が収穫できるでしょう。労働と汗の対価として。
 
 
 
チェンマイに住んで(その3) 2014年4月
 
 

 
先輩諸氏曰く、3月、4月は暑季。1年中で最も暑く、凌ぎにくい季節。この時期、暑さを逃れ、日本に一時帰国する人多いとのこと。私は去年のこの時期、チェンマイを留守にしておりましたので、今年、暑季を迎えるのが初めてになります。先輩諸氏が言うほど暑季はそんなに暑く、そんなに凌ぎにくいのかと好奇心をそそられたものです。
その暑季、4月。気温が上昇し、日中は家の中でも35°。扇風機を回しても部屋の空気をかき回しているだけで余計暑苦しい。朝のラジオ体操も汗だくで、アセモに悩まされます。我が家のエアコンは寝室に1台あるだけですので、部屋の掃除が済めば、寝室に避難します。バイクで街まで出かける時などは灼熱の太陽の下、熱風を切って走るが如き。なるほど暑季は凌ぎにくいと納得。
が、暑気は凌ぎにくいことばかりではないことを知りました。人、皆、水かけ祭りに興じるソンクランの頃、街の木々は一斉に花をさかせます。とりわけゴールデンシャワーの黄金の花には目を見張りました。灼熱の太陽の光を吸収し、光の房のように垂れ下がるゴールデンシャワーは、まさにタイの国花にふさわしく、きらびやかに輝いて美しい。家路に向かう道すがら、お濠端に咲くゴールデンシャワーの並木が街路を黄金色に染める風情を何にたとうべきか。花はゴールデンシャワーだけではありません。火炎樹の燃えるような赤、サルスベリの青い花、アメリカネムノキの花その他、名前も分からない木々の花々が咲き乱れる様は、日本では見られないでしょう。
花だけではありません。暑季は果実の実る季節でもあると知りました。我が家の狭い庭の木々が次々と実を付け今、マンゴー、チョンプー、ライチが鈴なりです。この時期には、決まって風が吹くそうで、この風をマンゴー風と言うそうです。日本のリンゴ栽培農家では、大きく味の良いリンゴを収穫するために、人間の手で、多すぎるリンゴを間引く作業をするそうですが、タイのマンゴーの間引きは自然の風にまかせるそうです。マンゴー風が吹いた翌日、庭にたくさんのマンゴーが落ちていました。この時期、田んぼの稲穂も黄金色に色付き日本の秋を思わせます。
1年の内で一番暑い暑気が、1年の内で一番美しい季節であるというのが私の好奇心の答えとなりました。 
 

 
チェンマイに住んで(その2)  2014年3月
 
   

郊外に引っ越してからしばらくたったある日、急に38.5℃の発熱と下痢、腹痛に悩まされ、デング熱にやられたかと思いましたが、日中は普通にバイクで外出できるほど平常に戻り、昨夜の高熱も忘れる程でした。ところが、夜になるとまた高熱、腹痛、下痢で寝ることもできない。そんな状況が続いた3日目、我慢も限界に達し、バイクでチェンマイラム病院に駆け込み,診察を受けました。結果、デング熱かどうかは検査しないと分からないが、かなり憔悴しており、他の感染症の疑いもあるとのことで即入院。正直なところホットしたものでした。病院の10階にある個室に入り、点滴治療が開始されました。外は激しい雨になって、雨音を聞きながら自然な眠りに落ちました。

翌日、血液検査と検便の結果デング熱の形跡はなく、ごくありふれた菌による感染症で、免疫力が劣っている高齢者や病弱な人に発症する、いわゆる日和見感染と診断され、点滴と投薬の治療が続きました。腹痛も和らぎ始めると退屈しのぎに病室や看護師、使っている医療用具等の観察を始めました。

個室は広く、患者の付き添い用のベッドやソファー、シャワールーム、調度品、テレビ等があり、チョッとしたホテル並。テキパキと世話をしてくれる看護師は皆美人ぞろいで私はVIP扱い。使っている医療用具はかなり古いものと見受けられる。夜中に輸液バッグの差込みチューブが外れて、血液が逆流してベッドや床が血に染まった時は慌てました。ブザーで看護師に知らせ、輸液セットやベッドを取り替えて事なきを得ましたが、患者が気がつかなかった場合、出血多量で死に至ることになる。今の点滴装置にはこのようなことが起こらないような安全装置が付いているのですが。チューブが外れた事故以外は、総じて入院生活は快適でした。

後で、人から聞いた話では、このようなVIP待遇を受けるのは何らかの保険に加入している人で入院費の支払いが保証できる人に限られるとの事。

入院から3日目、やっと退院許可が出て、入院費の明細書、総額38,065BT(121,808円)を渡されました。海外旅行保険に加入していたので入院費については心配はしておりませんでしたが、病院側は日本の保険会社と連絡を取り、支払いに問題なしの回答が出るまでパスポートを預かると言う。なるほど、当たり前の治療を受けられるのは治療費の支払いが担保できる患者に限ると言うことか。

とにもかくにも、あれほど苦しんだ腹痛も治り、お世話になった美人看護師に別れを告げ、チェンマイラム病院を後にした時の気分は晴れ晴れとして、健康であることのありがたさを改めて思いました。鼻歌まじりでバイクを運転し懐かしの我が家に帰宅。たった3日間留守にしていただけなのに、何年かぶりの帰宅のように思えてきたのはなぜだろう。私を待っている人は誰もいないのに 
 
 
 

チェンマイに住んで(その1)  2014年2月
 
 

チェンマイに住んで早1年2ヶ月が過ぎました。バンコクから長距離バスでチェンマイに着いたのは一昨年の11月27日の午後7時。

小雨降るチェンマイ・バス・ターミナルに1人降り立った時がチェンマイライフの第一歩でした。
言葉も解らない、知人もいない、ここがチェンマイのどこら辺かも、右も左も、前も後ろも全く分からない異邦人でしたが、なぜか気分は高揚してウキウキ、ワクワク状態。

予約しておいたピン川の近くの安宿に泊まって、翌日から家探しがはじまりました。日本語の情報誌「チャオ」も知らなかった頃で、バンコクで手に入れた地図を片手に暑い中、何処へ行くともなくウロウロ歩いている時、タイ人女性に声を掛けられ、親切に私の家探しがてらチェンマイ市街地を車で案内してくれたことは今でも心に残っております。

そんな親切が翌日にも起こりました。これは幸先が良いと思ったとおり、その後の成り行きは順調に進み、コンドミニアムを3回住み変えた後、去年の9月1日、かねてから希望していた郊外の庭つき一戸建てに引っ越しました。

小さい家ですが、そこそこの広さの庭にはマンゴーの木やライチの木が鬱蒼と茂り、アデニュウムの花やブーゲンビリヤの花が咲いておりました。この歳でバイクの免許も取り、チェンマイ市街地までバイクで30分かけて、ほぼ毎日のようにボランティア活動に専念できることで両手のシワとシワを合わせて感謝です。

緑に囲まれたこの家に住んで、朝は小鳥の声で目を覚まし、朝露に濡れた庭に出て大きく深呼吸するとさて、今日は何が起こるかなとワクワクしてきます。
そこで一句「これがまあ終の棲家かブーゲンビリア」お粗末。(芭蕉の盗作)1つの難題はタイ語。でも決めました。タイ語の学習を諦めないこと。下手でもいい。タイ人との意思疎通ができるようになり、多くの老若男女のタイ人と交流ができる事を願って。難題が有ることは有り難いことです。
 
 
 
 

PDFが小さくて見にくい場合は、画面上に表示される+マークをクリックしてください